浮世絵と刺青(タトゥー)の関連性は、日本の江戸時代後期から明治時代にかけての文化的な発展と密接に結びついています。
特に浮世絵師・歌川国芳が描いた作品は、刺青のデザインやスタイルに大きな影響を与えました。
ブーム以前の刺青
刺青は、人類の最も古い身体加工法の一つで、世界各地で見られる文化です。
起源は定かではありませんが、日本で出土した土偶などから、古代より刺青の習慣が存在したと言われています。
『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)にも、辺境の民の習慣や刑罰として刺青に関する記録が残っています。
しかし、7世紀中頃からは日本における美意識は大きく変化しました。
身体的な肉体美よりも、服や香りなど、暗い室内でも映える「美しさ」を求めるようになり、刺青は徐々に行われなくなり、そのような資料も17世紀初期まで見かけなくなりました。
歌川国芳の浮世絵が刺青ブームの発端に
江戸時代、建築や消防などの仕事を行う鳶(とび)や、飛脚(ひきゃく)は、ふんどし一丁で仕事をすることが多々ありましたが、地肌をさらすことは恥ずかしいとも考えていたそうで、服の代わりに刺青を身にまとっていました。
やがてそれは憧れの対象となり、19世紀前半には、浮世絵師の歌川国芳(くによし)が中国の小説『水滸伝』の主人公たちの全身に刺青を描き、大評判となりました。
これが刺青ブームの発端となり、人々は争うように水滸伝の刺青を彫るようになりました。
刺青は江戸庶民の間で爆発的な流行となり、芸術的な発展を遂げたのでした。
やがて社会では「鳶に刺青はつきもの」とのイメージが強まり、まだ刺青を入れていない若い鳶には、町内の旦那衆が金を出し合って彫らせることもあったそうです。
ちなみに鳶たちは、龍のイレズミを入れることが多かったそうです。
これは龍が雨を呼ぶと信じられ、自身を霊的に守る意味があったそうです。
歌川国芳のタトゥーシール
国芳は江戸に刺青の一大ブームを巻き起こした人物です。
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