北斎には絵師の娘がいたことをご存知ですか?(ちなみに北斎の子どもは全員で6人います)
父:北斎があまりにも有名すぎて影に隠れがちですが、彼女もまた類稀なる絵の才能を発揮した絵師でした。
天才絵師の元に生まれた波瀾万丈な人生を解説していきたいと思います!
今回は、北斎の娘について深掘りしていくよ!
北斎とその後妻との間に生まれる
北斎と後妻との間に生まれた三女:栄(えい)。画号は応為(おうい)と言います。
奇人で知られた北斎ですが、応為の方もなかなかのもので、小事にはこだわらず、粗末な衣服で食事を恥じることもない、男勝りの性格だったと言われています。
身なりで整えたのは髪程度。ろくに掃除もせず、紙くずや総菜を包んでいた竹の皮などが散らばった家で、親子は画業に没頭していたようです。
父親とは違い、酒もたばこも嗜んでいた応為。
ある日、北斎の描いた絹本の絵にたばこの吸い殻を落としてしまい、長い間それを後悔していたというエピソードも残っています。
画号の応為(おうい)は、日頃から二人が互いに「オーイ、オーイ」と「親父どの」とよびあっていたことから生まれた名前だとか。
応為は顎が出ていた顔立ちだったようで、いつも北斎は「アゴ、アゴ」とよんでいたそうです。
今は娘を「アゴ」なんて呼んだらいけません!
絵師の旦那の絵を笑ってしまい離婚
絵師の南沢等明(みなみさわ とうめい)と結婚。
しかし、針仕事をほとんどせず、父譲りの画才と性格から、等明の描いた絵の稚拙さを笑ったため、三行半(離婚状)を突きつけられてしまいます。
以降は北斎が没するまで画業を助けながら生活しました。
応為の生涯ってわかってることが少ないのに、よくキャラが立ってるね。
美人画の才能
美人画に関しては、北斎より応為の方が勝っていると言わしめるほどの作品を残しています。
北斎の肉筆美人画の代作をしたり、北斎の春画の彩色を担当したとも言われています。
しかしながら、応為作の可能性がある肉筆画は10点ほどしかありません。
この時代の絵師たちは、ルネサンス期のヨーロッパの画家たちのように「工房」を作って絵画制作にあたっていたとされており、応為は「北斎工房」の有力なメンバーとして才能を発揮していたと言われています。
晩年の北斎の肉筆画には、80歳を過ぎたとは思えない緻密な彩色の作例がいくつかありますが、応為がサポートしていたであろうことが推測されます。
晩年
北斎の死後、加州 金沢に赴いたとも、信州 小布施に滞在したとも伝えられていますが、応為の最後を明確にした資料は残っていません。
生年月日も良く分かりませんが、安政4(1857)年に数え67歳で没した記録があり、それが正しければ1791年生まれということになります。
まとめ
北斎の影に隠れてあまり知られていない応為。残された作品も少ないですが、一度知ると、長く人々の記憶に刻まれていきそうな、とてもキャラが立った素敵な女性だということがわかりました。
もっと知りたい方は