歌川国芳(1797年~1861年)は、江戸時代後期を代表する浮世絵師で、独創的でユーモアあふれる作風やダイナミックな構図で知られています。
まるでジャンプ漫画?!と思わせるほどの迫力ある浮世絵作品は当時の人々を魅了しました。
しかし国芳自身はほとんど自分の顔を見せたがらない人物だったようです。
その理由について徹底考察して行こうと思います。
歌川国芳について
歌川国芳(1797年~1861年)の人生は、江戸(現在の東京都)に生まれました。
父親は染物職人で、幼い頃から絵に親しんでいました。
14歳の頃、初代歌川豊国に弟子入りし、浮世絵の技術と知識を学びました。
その後、『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』の発表で大ブレイク。
このシリーズは中国の『水滸伝』を題材にした武者絵で、力強い表現と大胆な構図が人気を集めました。
この水滸伝シリーズは刺青・和彫の人気モチーフとなり、江戸に刺青の一大ブームを巻き起こしたと言われています。
国芳は、特に武者絵に定評があり、多くの人を魅了しました。
庶民文化や粋なテーマを取り入れ、江戸の町人たちから絶大な支持を得他のです。
また、 猫を好んだことでも知られ、猫をテーマにしたユーモラスな作品も多く描いています。
歌川国芳が顔を見せたがらない理由
『歌川列伝』によると国芳は活発な性格で、小さなことにはこだわらず、その日に得た画料はその日のうちに使ってしまい、貯える気はなく、いわゆる「宵越しの金は持たない」という生粋の江戸っ子であったと言われています。
また、町火消しと親しく交わり、火事となれば距離関係なく駆けつけて、危険を顧みず消化を手伝うような人情溢れる人柄だったそうです。
わしなんか、自分の家が火事になった時、振り返りもせず一目散に走って逃げたよ
そんな豪快で人情あふれる人柄と伝えられている国芳ですが、なぜか自分の顔や姿をまともに描くことを避け、その多くは後ろ姿で描かれています。
「自分の顔に自信がないからでは?」
「江戸っ子特有の照れがあるとか?」
などと理由はいろいろ言われていますが、国芳の死後に弟子が描いた死絵(現在で言う遺影のような絵)を見るとなかなか立派な顔立ちをしています。
正直、わざわざ顔を隠す必要性はなかったように感じます。
個人的な考察では、やはり「遊び心」が大きいのではないかと思います。
自身の顔を描かずに自分であることを表現する腕の見せ場や、その工夫を楽しむ江戸っ子らしさから顔をあえて描かなかったのだろうと感じました。
歌川国芳のタトゥーシール
国芳は江戸に刺青の一大ブームを巻き起こした人物です。
本物のタトゥーを彫る勇気はないけど、イベントなどでボディアートを楽しみたい方はぜひタトゥーシールを使ってみてはいかがでしょう?
私たちは化政文化にインスパイアされた現代的音楽を制作しています。
ぜひ聞いてくださると嬉しいです。
本サイトでは、アフィリエイト広告を利用、またはプロモーション記事が含まれている場合があります